葡萄酒狂徒の日常茶飯事(ちゃめしごと)
No.1〜10


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2000年7月7日
No.1 麺食い宣言

  「イタ飯」という言葉が定着して久しい。まだバブルが華やかなりしころ、空前のイタ飯ブームは、イタ飯屋のメニュー価格を一気に引き上げた。 フレンチレストランと違わぬ高値も見受けられた。パスタ好きの私にとって、これはゆゆしき問題であった。
  時代は移り変わって、現在は、安いイタ飯屋を簡単に見つけることができるようになった。うれしい限りである。
  日本の製麺業者が鬼の首を取ったかのように喧伝する「デュラムセモリナ100%」。あれは、当たり前のクオリティーなのであって、本場の人たちが聞いたら、 なぜそんなことをわざわざ宣伝するのか、不思議に思うのではないか。
  日本で入手できるパスタのブランドのうち私が最も好きなのは、「バリラ」である。できる限り探すのだが、近所のスーパーなどでは入手困難なのが残念である。次善の策として、「ディチェコ」も良しとする。
  同じデュラム小麦のセモリナ100%であっても、国内メーカーのものの中にはクオリティーの高いものは見受けられない。やはり本場とは技術力が違うのであろうか。具体的にどこが違うかといえば、ジャストのタイミングで湯からあげたとき、そこできっちり茹でが止まってくれないのである。 だから、そのような麺を使わざるを得ないときは、かなり芯が残っているような段階で湯からあげる必要がある。そうでないと、食するときにアルデンテの状態とならないのだ。
  一口にパスタといっても、その形状や太さにより、スパゲティ、カッペリーニ、フェットチーネ、ラビオリ、カネロニ、マカロニ、ペンネ・・・と名前が異なっていることは、ご存知のことと思う。すべて原材料は一緒である。
  日本の麺類にも、同じようなことがある。そうめんとひやむぎ、あれは、何の違いかご存知だろうか。実は、パスタと同じく、太さの違いだけなんである。
  日本人は、自国の食文化をないがしろにする傾向があって、悲しい限りであるが、そうめんやひやむぎの茹で加減にこだわっている人を見たことがない。しかし、丁度良い加減に茹で上げたそうめんやひやむぎは、実に歯ごたえがあり、つるつると喉越しも良いのだ。 ぜひ一度試してみてほしい。

2000年7月16日
No.2 おいしい店?

  「あの店はおいしい」という表現をよく耳にする。私は、基本的にこの表現は間違いであると思う。なぜなら、おいしい、まずいは、個人の感覚なのであって、絶対的においしい店、絶対的にまずい店など存在しないからだ。 だから、そのような表現をする人とは、食の話はしないことにしている。
  店を判断する上で大切なポイントは、まず、商売としての基本ができているかどうか。それは、至極当然ではあるが、衛生面がしっかりしているかどうかという点に始まり、新鮮な食材を用いているかどうか、作り方が基本に忠実であるかどうか、 いつも一定のクオリティーを保っている(安定している)かどうかというようなことである。
  ラーメン屋は汚いほうがおいしい、などということを言う人があるが、もちろんおいしいと感じて頂くのは個人の勝手であるから、私の知ったことではないが、少なくとも私は、不衛生な店は、いくら味が良くとも商売としては失格であると思っている。
  食べ物がメインであるならいざ知らず、喫茶店の看板を上げながら、煮詰まったような珈琲を平気で出す店があるが、あれなどは言語道断である。もっと自分の商品に誇りを持って提供してほしいと思う。
  行列のできる店のクオリティーが必ずしも高いとは限らない反面、大企業の経営するチェーン店のすべてが悪いとも限らない。外食産業も、大事なのはコストパフォーマンスであるから、ファミレスの、セントラルキッチンでパックされてくるレトルトを温めただけの料理であっても、 値段に見合っていれば、それはそれでOKである。マクドナルドのハンバーガーなどに至っては、65円であれだけのものを提供できることは、驚愕以外の何ものでもない。
  これからの時代、ますますコストパフォーマンスという点が重要視されてゆくに違いない。そうなれば、本当の意味で「内容で勝負」となるから、外食産業全体の質の向上が期待できると思う。
  我々消費者は、同じ金を使う以上、もっともっと賢くなるべきだ。

2000年7月28日
No.3 味と音楽の類似性

  音と音の隔たりを、音程という。
  例えばピアノで2つの音を同時に鳴らしたとき、美しく溶け合う組み合わせとそうでない組み合わせがある。様々な音の組み合わせのうち、完璧なハーモニーを生み出す、つまり完全に溶け合う音程を、完全協音程という。 1オクターブ内に限定していえば、完全1度(同音)、完全4度(例えばドとファ)、完全5度(例えばドとソ)、完全8度(例えば下のドと上のド=オクターブ)の4パターンしかない。
  完全協音程ほど美しくはないが、不完全ながら溶け合う組み合わせもあり、これを不完全協音程という。短3度(例えばドとミのフラット)、長3度(例えばドとミ)、短6度(例えばドとラのフラット)、長6度(例えばドとラ)の4パターンである。
  これら完全協音程、不完全協音程以外のすべての音程を、不協音程といい、いわばぶつかり合う音の組み合わせである。
  和音とは、3つ以上の音の組み合わせであるが、完璧なハーモニーを作るために、完全協音程だけを組み合わせて和音を作ろうと思っても、実はうまくゆかない。例えば、ドとファ、ドとソという完全協音程同士を組み合わせようと思ってみても、 ド・ファ・ソの3音では、ファとソが長2度という不協音程なので、協和音とはならない。
  基本的な3和音は、例えばド・ミ・ソのように、ドとソの関係は完全協音程である完全5度、ドとミの関係は不完全協音程である長3度、ミとソの関係は不完全協音程である短3度となっている。
  この和音のような関係性は、音楽以外の世界でも、様々な場面でみつけることができる。例えば、味覚である。
  Aという食材と完璧なハーモニーを醸し出す2つの食材、BとCがあったとする。この場合、A・B・Cの3種を混ぜ合わせても、良い味を生み出すとは限らない。1対1の組み合わせで完璧だったものが、複数混ざると溶け合わない。 反対に、1対1では完璧とはいえない相性でも、複数が組み合わされることによって完璧なハーモニーを生む。料理とは、その美しいハーモニーを追求する芸術なのだと思う。
  音楽に典型的なコード進行(和音の流列)があるように、料理にも基本的なメニュー展開というものがある。そのベースには、ルールに則った3和音がきちっと鳴っていなければならない。
  ドミソの3和音に例えばシの♭を加えると、少し緊張感のあるセブンス・コードになる(C,E,G,B♭の4和音は、C-7thである)。短7度という不協音程が加わることで、和音に一味違うアクセントを加えているのだ。 料理の世界でも、同じように基本の味わいの上にちょっと異種のアクセントを加えることにより、魅惑的な味覚が生まれるということもある。この場合、最も大事なのは、常に基本がしっかりしていることである。 音楽で言えば、3和音がセオリー通りに正しく響いているということであろう。
  ド・ミ・ソの和音のうち、ソを半音高めた和音(ハ長調で言えば、C、E、G#)を、オーギュメント・コードというが、これなどは、決して美しい和音ではない。根音(ド)と第3音(ミ)が長3度、第3音(ミ)と第5音(ソ#)も長3度という、 いずれも不完全協音程であるが、最も大事な根音と第5音との音程が、やはり増5度という不完全協音程なのである。このような異質な和音も、美しいコード進行の合間に挿入されると、一瞬のゆらめきのような、極めて情緒に訴える響きとなる。
  これは、料理でいえば、珍味であろう。このような珍味が人を魅了するのは、それを支える美しい和音(=基本に忠実な、いわば正しい味付け)が厳しく守られているからに他ならないのだ。

2000年8月5日
No.4 電脳万能主義への疑問

  「今どきコンピュータくらい使えないと、取り残される」という。
  そんなことを偉そうにのたまう御仁こそ、もう既に取り残されているのではないか。
  インターネットが普及し始めた頃、私は、インターネットというものにいささか懐疑的であった。日常の中で使うことはあったが、はっきり言ってその当時は、とても使える代物ではなかった。仕事に必要な情報を得ようと思っても、 まだ紙メディアに比べて即時性がなく、ホットな情報をいち早く得ることなどまるで不可能であった。そんな中でも、自ら先進的と自負するような人々は、もはやネットの時代であり、これからはインターネットを使えないようでは時代遅れになる、 というようなことを、したり顔で言っていたものだ。私は、そんな族に対し、「情報を得ると言ったって、あなたは一体全体、そんなに情報というものを必要としているのか?」と問いただしたい気持ちであった。
  日頃まともに本を読まない。それどころか、新聞すら読まないような御仁が、何をそんなに情報が必要だというのだ。情報が必要というなら、まずは新聞をくまなく読んでみたのか?書店に本を探しに行ったのか? それでもダメなら、国立国会図書館にでも問い合わせをしたのか?まあそこまで大げさなことでなくても、例えばあなたは、テレビのニュースで自分の知らない単語を聞いたときに、少なくとも国語辞典を引くという努力をしているだろうか? 知らない地名が出てきたら、地図を広げて探してみるということをしているだろうか?日々の生活の中で、少なくともそういう姿勢で情報に臨んでいるのなら、ネットの活用によってより便利になるというのは理解できる。 しかし、日頃辞書のひとつも引かないような人間に、何の情報が必要なのだろう?
  新しいものが出てきた時、いち早くそれを取り入れないと、何か遅れをとったような気がする。他の人より早く新しいものを使いこなしていると、何だか競争に勝ったような気がする。これらは、我々日本人の最も愚かな性癖の一つではないか。 本当に必要に迫られてそれをしているのではない。それをすること自体が目的となっているのだ。
  現在、私自身もこのようにサイトを運営するようになり、ごく普通の人よりは、コンピュータに接する時間は少々長いであろう。私が自らネットの世界に入ってきたのも、この数年でようやく本当に有用になってきたと感じているからだ。
  最近でも、「やはりコンピュータくらい使えないとダメなんでしょうね」というような声を聞くが、私はこういいたい。「あなたがあなたの人生の中で、本当にコンピュータを必要と感じるのなら、必要でしょう。 でも、毎日の生活の中で、なくても不便を感じないのなら、別に使う必要はありません」と。コンピュータのまったくない人生だって、素敵ではないか。他にいくらだって、人生を豊かにする道具はある。私は、もともと機械好きということもあって、 今やパソコンのない毎日は考えられない。マシンに触る喜びのようなものを、日々感じている。しかし、機械に触れるのが苦痛な人に、強要してみたところで、その人に幸せをもたらすことはないだろう。
  最近私が懐疑的に思うもの。それは、iモードである。携帯でインターネットだと?あんな小さな画面で見て、何が楽しいというのだ。欲しい情報がすぐに引き出せるとか何とか言うが、そんなことをいう人々は、 携帯が普及する以前から、外出先で欲しい情報を確保する手段として、例えば手帳に書き留めておくとか、そういう努力をしてきたのだろうか?メールの送受信にしたって、あんな小さなボタンで入力するのは大変であるし、 そもそも外出先でそんなにあせって送らなきゃいけないメールなんて、そんなにあるんだろうか?
  私は、昔から、スケジュールや住所録以外にも、例えば終電時刻とか、よく行く街のお店の情報とか、美術展や絵画展の日程とか、はたまた個人的な贈答品の備忘とか、金銭出納とか、振込に必要な口座番号とか、そういったものはすべてシステム手帳に記録、整備してきた。 ノートパソコンを持ち歩くようになった今でも、スケジュール管理と情報管理は、手帳が担っている。 必要な情報にアクセスするまでの時間の短さは、手帳に優るものはない。(もちろんかく言う私も、外出先でいつでもメールの送受信ができるように、ノートPCと共に携帯電話と接続コードも持ち歩いてはいるが。まあそれは、キカイを愛してるんである)
  今やペーパーレス化が進んでいるから、紙の印刷物は減ってゆくだろうなどという意見もあるが、そういう人は、本を読まない人であろう。本好きにとって、例えば書店というのは、パラダイスである。 あの自分の背丈以上もある書架に囲まれ、本の匂いを感じながら背表紙を眺めている時の恍惚感は、何ものにも代え難いのである。読む時だって、パソコンのように、こんな無機質な、鉛筆で書き込みすらできない画面を見つめてみても、読書の喜びは感じられない (パソコンを眺める喜びというものはあるが)。 そういう素肌感覚でモノや情報と付き合ってきた人からすれば、昨今の、「ソフトソフトと言いながら、実はハード先行かつ偏重」の潮流には、「やれやれ」といった感じではないだろうか。
  モノがないとできない。モノがあるから何かができるようになる。そんなふうに考える人は、きっと初めから何もできないのである。何かをやりたいという、やむにやまれぬ情熱が先にあって、その上で必要な手段としてモノを使うならば、 その時初めて、何かを得るに違いない。
  さて、このコーナーは食やワインに関するコラムであるはずだが、今回は逸脱してしまった。ワイン好きの中にも、流行っているからワイン好きになろうとか、もっと最悪なのは、ポリフェノールが健康にいいから飲もうなどという声もある。 飲むことが喜びでないのなら、飲む必要など断じてない。お酒に失礼というものである。ましてや、健康なんてことを考えてる奴は、酒なんか飲むな。とキツく言い放って、終わりとしたい。

2000年9月21日
No.5 義務化にろくなものはない

  「200X年、和食義務化」。そんな事態になったら、どうしよう。
  もし、これから一生、米かパンのどちらか一方をあきらめなさい、と言われたら、ほとんどの日本人は、米を取って、パンを捨てるに違いない。しかし、私は多分、悩んだあげくにパンを取ってしまいそうである。たとえ国賊などと言われようと。
  もちろん、コシヒカリのもっちりとした王者の風格十分な食べ応えや、ササニシキの端正でエレガントな味わいや、あきたこまちの初々しい風味や・・・。日本のお米の素晴らしさは、私もこの舌でわかっている。
  麺好きということもあり、パスタとパンさえあれば、飽きることなく毎日食べつづけられる。そういう自信がある。でも、パンがなくなり、米と麺だけと言われたら、多分飽きてしまうだろう。
  「何やら、食生活改革国民会議とかいう首相の諮問機関が、国土愛高揚のため、また若年層の犯罪防止のため、和食を義務化すべきだとの報告をしたらしい。なんでも、パン食は人間をイライラさせて、犯罪発生率を上げるのに対し、 和食は精神を落ち着かせるからなんだって。それだけでも十分胡散臭いけど。まあ、農家の後方支援ってとこが本音だろう。とりあえず最初は学生の一定期間だけらしいけど、そのうち18歳以上の全国民に義務化するんじゃないか。 和食だから、表立って反対しにくい所がミソなんだ。終いには、他の国に行って米を育てて、ついでに収穫して来いなんて言うんじゃないか。いずれにせよ、時代遅れも甚だしいねえ。」
  そんな世の中にならないことを、私は願っている。米も、パンも、そばも、うどんも、パスタも、各人の食生活に合わせて、バランスよく自由に取ることができるから、我々の人生は楽しくなる。 もちろん、これほど多くの選択肢がある豊かな国に暮らしていることを、感謝しなければならないが、食べる自由も、食べない自由も与えられているからこその豊かさであろう。
  もし、これだけを食べなさい、と強要されたら、私はきっとその食べ物を嫌いになるだろう。こんなホームページも作れないに違いない。だから、この国がこれからも、つまらない全体主義に傾いてゆかないことだけを念じている。

2000年10月4日
No.6 料理と対話しながら食べる。ワインと語り合いながら飲む。

  私の友人の一人に、珈琲店、レストランバーなどを初め、様々な飲食関係の職歴のある男がいる。
  彼との最初の出会いは、彼が当時(もう十数年前のことである)勤めていた珈琲店のカウンターであった。カウンター越しに色々と話をしたものだが、彼は、接客業として次のようなことに気を配っていると話してくれたことがあった。 それは、「お客様がお一人でいらしてカウンターに座られたとき、今日この方は一体何を求めてここに来られたのだろうということを読み取り、それに応じた接客をするように心がけています。 例えば、人恋しくて来られたであろう方にはこちらから積極的に話し掛けて、楽しい気分で帰って頂きたいし、反対に、今日はゆっくり本を読みたい、一人で考え事をしたいという感じのお客様には、 邪魔をしないようにしています。こういう気配りをすることが、我々の最低限の務めだと思います。」
  彼の淹れる珈琲から感じられる人間味は、こんなところから来ているのだととても感激し、この経験が、私に食やサービス業に対する確固たる視点の基礎を与えてくれたと思っている。
  その彼が、あるときこんなことを言った。
  「僕は、例えばオレンジを一個食べるとき、そのオレンジと会話しながら食べるんです。皮をむく前に色の美しさを見、香りをかぎ、その感想をオレンジに伝えながら食べさせていただくんです。 そうするとそのオレンジの本当の魅力がわかるんですよ。」確かこんな内容であった。
  こんな話を聞いたら、おそらく10人中9人までが可笑しくて吹き出すのではないか。あるいは今これを読んだ貴方は、思わず背筋が寒くなったかもしれない。
  でも、ここではっきり言わせて頂くと、そんなふうに笑ったり馬鹿にしたり気味悪がったりする人は、絶対に食の世界を極めたり、味覚を武器に使うことの出来ない人である。私はそう思っている。
  彼のこの言葉を聞いたとき、私はいたく感動した。自分は今まで、いかに口に入るものに対し、ぞんざいな態度を取りつづけてきたことか。このような真摯な態度で食べ物に向かうことができれば、 すべてのものの良さが体感できるし、また食べられるということに、純粋に感謝する気持ちも生まれてくるに違いない。
  以来、私は、食べ物に向かって声に出して感想を述べないまでも、素直な感想を心の中に思い描くようにはしている。料理にこちらから話し掛ければ、料理もまた雄弁に自らの魅力を語ってくれる。 そんな会話のキャッチボールが、食べることの素晴らしさを実感させてくれるし、自分のひとりよがりな味覚だけで美味しいとか不味いとか言ってはばからないような無神経な状態から我々を救ってくれるような気がする。
  ワインを飲むときに、そのぶどうの生まれ育った畑を思い浮かべながら飲む、などというと、「それだからワイン好きは気味が悪い」などと言われがちだが、ちょっとカッコよく言えば、 その根底には、口に入るものを育んでくれた自然に対する畏敬の念のようなものがあるのだ(いつもいつもそんなことをしているわけではないが)。
  私は特定の宗教を持たないが、例えばキリスト教徒が食事の前に祈りを捧げるのは、元来自然に対するこのような謙虚な気持ちの表れであるはず。 そういう素朴な心を失ったら、我々はどんどん横暴になってゆくだろう。

2000年11月21日
No.7 うるわしの君、汝の名は"BIG MAC"

  私は、自他共に認めるマクドナルド・フリークである。
  「なんだ、ここのWEBマスターの味覚も、その程度だったのか。」という反応や、また反対に、「ここのWEBマスターが言うのだから、マクドナルドって本当はすごいのかも。」 といった意見があるかもしれない。しかし、この2パターンのいずれの反応も、私の日頃の主張を理解していないものである。
  私が、「好き」ということは、単に私個人の嗜好を述べているものであって、その対象の質を云々しているのでは決してない。主観的な嗜好と、客観的かつ冷静な価値判断とは、まったく次元の違うものである。 つまり、好きだからといって、客観的に優秀であると評価していることにはならない。
  ただ、誤解の無いように言っておけば、マクドナルドのクオリティは、あの価格にしては驚異的に素晴らしいということだ。そもそも、ファーストフードと一流レストラン等を同列に扱うことなどできないから、 ファーストフードはファーストフードの価格水準において冷静に判断されるべきものだ。
  BIG MACは、300円未満で食べられるもののうち、私が最も好きなものであり、また、客観的に見ても、高品質だと思う。あの価格であのクオリティを厳格に維持しているということは、実に驚愕に値する。ファーストフードなんて所詮味覚のわからない人の食べるものだ、 などと豪語している方は、自ら冷静な価値判断能力がないことを披瀝しているのである。
  例えば、マックフライポテトについて考えてみよう。貴方は自宅でフライドポテトを作ったことがあるだろうか。油で揚げるだけの冷凍食品ではない。じゃがいもをカットするところから始めるのである。 あれだけのカリッとした食感を実現するのは、とても一般家庭では無理だろう。しかも、それが100円、200円台で提供されているのである。それだけでも素晴らしいことではないか。 もちろん素人の真似の出来ない商品を提供するのが、プロの当然の務めではあるが、その当たり前のことを実行できていない飲食業者が世の中にはあふれている。 その中にあって、どの店舗でも同じクオリティのものを提供できているというマクドナルドの高い技術力(実際には、店舗によって、時間によって、若干のクオリティの差は発生している。充分許容範囲内ではあるが) は、評価されてしかるべきである。
  昔ならば、スーツを着た男が一人でファーストフードに入るのは、少々違和感があった。しかし、不況のせいもあって、最近のマクドナルドは、実にオジサン族であふれている。 彼らのうちの多くは、多分、自分の少ない小遣いを恥じ、きっと惨めな思いでハンバーガーを食べているのだろう。彼らは、概してやや伏し目がちであり、食べ終わるや否や、そそくさと出てゆく。 その横で私は、今日も、「ごちそうだ!」と思いながら、大喜びでBIG MACをほおばっている。
  同じものを食べても、食に対する考え方次第で、幸せにもなり、惨めにもなるのである。

2001年2月10日
No.8 安ければいいのか

  バブル崩壊後、まるで標語のように「価格破壊」が言われ、それをもてはやすかのような風潮があるが、私は、この事態をゆゆしきものだと考えている。
  安ければいいのか? 本当に声を大にして問いたい。「価格破壊」が言われ始めた頃(バブル崩壊以前であったと思う)から、私は、「それは間違っている」とずっと思ってきた。 現在進行している価格破壊は、モノが売れなくなった苦境をなんとか改善するために、企業が自ら血を流して行っているところがある。ここで、間違ってはならないのは、 高コスト体質の是正と、血を流す価格破壊とは別物であるということだ。無意味な高コスト体質を改善すべきなのは当然のことだ。そうではなく、企業が利益を削ってでも消費者に媚びるという姿勢は、 あきらかに経済を疲弊させる。そして、そのようなことができるのは、一部の優良企業に限られる。その優良企業とて、いつかは限界がくるはずである。
  安ければいいという発想はまた、消費者をバカにしたものである。大量仕入れ、大量販売という形式でクオリティは二の次にしてきたような企業は、今後淘汰される運命にあるだろう。
  現在成功している企業のキーワードとしてよく言われるのが、安値とならんで、本物志向、フリーチョイス感覚などである。 あるテレビ番組では、今世の中で受けているものの代表例として、「ユニクロ」、「スターバックス」、「モーニング娘。」を挙げていた。いずれも名前そのものが売れており、 本物志向で、かつ押し付けではなくフリーチョイスできる魅力があるというのだ(モーニング娘。が本物志向だとは私は決して思わないけれども)。
  物品販売の業界に限って言えば、この中では、特に本物志向という点が重要で、値段が安くとも品質が確かでなければ、ブームを巻き起こすことはできない(アイドルグループだけは、実力よりも時代の風潮にさえ乗れば成功すると言える)。
  本当に良いものを、的確な値段(安いということではない)で提供する。しかも、安くするためには接客態度は犠牲にしましたなどというのではだめだ。 この接客態度というものが曲者で、よく地元の商店街活性化などでお題目のように出てくる「大手スーパーには無いまごころ接客」みたいなものは、まったく間違っている。 そんなベタベタした「売らんかな商法」は、本当のまごころではないのだ。お客が今何を望んでいるかというのを瞬時に的確に判断して臨機応変に対応することが必要である。 声をかけずに放っておいて欲しい時もあるのだから。小売業者は、例えば一流シティホテルの接客技術に学ぶべきである。実のところそれは決して形式や外見を真似たからといってできるものではない。 文字通り心の問題であり、それが本当にわからないと、商売は成功できないと思う。行き届いた接客と言えば、すぐ「銀座のクラブ的接客」を思い浮かべるような企業には、明日は無いと思う。 余計なおせっかいは、あくまでもおせっかいに過ぎない。
  品質は確か。買う側の選択肢をたくさん提供する。しかもサービス業の原点に立ち返って、奉仕や感謝の気持ちで顧客に誠実に接する。この条件が揃っていることが重要で、「安い」というのは重要な要素ではない。
  「安ければ売れる」と思っているような企業は、没落してゆくだけだ。

2001年2月26日
No.9 命の値段

  沈没船を引き上げるのに莫大な費用がかかる、というような重たい話題ではない。
  最近流行っているTVアニメ「とっとこハム太郎」を、ウチの子は、毎週見るだけでは飽き足らず、ビデオに録って毎日のように見ている。 とても可愛らしいキャラクターで、大人が見ても微笑ましく思う。「くしくし」「けけっ」「てちゅわ」・・・と、意味不明ながら確かに可愛い。 TV以外にも、関連絵本がたくさん出ており、何冊かは買った。テーマソングのCDまで、買わされた。フルコーラスでも1分半程度のシングルCDなのに、 ちゃんとした普通の値段だ。「だーいすきなのはー ひーまわりのたねー」って、そりゃ当たり前だろ、などと突っ込みを入れたくもなる。
  そんなことを妻と話していたら、「最近は本物のハムスターも飛ぶように売れてるらしい」という。 そして、その日の新聞折込の中に、近所のペットショップのチラシがあったので、何気なく見てみた。すると、確かにハムスターが、 それも色々な種類のものが写真入りで載っている。
  私は、その値段を見て、驚いた。ゴールデン・ハムスター\570。ごひゃく、ななじゅうえん?! 仮にも生き物が、しかも哺乳類がそんな値段で売られているとは。 1匹1万円くらいするのか、と思っていた私は、とんでもない世間知らずであった。
  まあ考えてみれば、繁殖は簡単なのに違いない。放っておいても、文字通りねずみ算式に増えるのだろう。もしかすると1匹あたりの仕入れ値など、 売値の10分の1以下というようなレベルかもしれない。だから、ペットショップにしてみたら、この値段でも十分儲かるのだろう。
  しかし、である。こんな、おもちゃを買うより安い値段(ハム太郎のぬいぐるみなど、小さくても1,000円はする)で売ってしまったら、 あまりに気軽すぎて、「死んだら、また買えばいいや」という発想が出てきはしないか。それどころか、 こいつのキャラクターは気に食わないから、「リセットして」次のやつを買ってこよう、などという子供だって現れかねない。
  「安いから粗末にする。高ければ大切にする。」などということを言っているのでは、もちろんない。値段の問題ではないことは当然だ。 でも、あまりに安い値段では、その程度の価値なのだという発想が出やすいということを危惧するのだ。
  それでは、「命の値段」としていくらが妥当かと問われると、なかなか難しい問題ではある。 コスト面からも、需給バランスの面からも今の値段が妥当なのだろうが、敢えてもっと高い値段をつけることはできなかったのか。 そうすると今度は売れなくなって、繁殖しすぎたものを結局殺さざるを得ない羽目になるのだろうか。 そもそも人間の勝手で動物をペットにするということ自体、考え直さないといけないのではないか。そんなふうに議論は際限がなくなる。
  これからハムスターを飼おうと思っている方々に言っておきたい。お子さんに向かって、 「安いから買ってあげる」などと絶対に言わないように。実際に飼ってみると、昼は寝ていて夜になったら起き出し、 カゴの中に取り付けた滑車を夜中にカタカタ回したりして、相当うるさいであろうことなども承知しておくべきだ。
  TVを見ていると、子供向けアニメの作者はすごいと思う。子供の純真な視線で物事を見ていないと、あのようなものは創作できないだろう。 子供たちには、そういった純粋な感性をこそ忘れずにいて欲しいものだ。
  とっとこハム太郎のエンディングの台詞は、いつもたいてい同じだ。「今日はとっても楽しかったね。明日はもっと楽しくなるね、ハム太郎。」 こういう機微にほのぼのとしてしまうのは、私が、年だけくって成長しきれていない青いオヤジだからだろうか。

2001年4月2日
No.10 学歴社会ってそんなにいけませんか?

  最近すごいと思ったテレビCMに、某予備校のものがある。「学歴なんて関係ないぜ! と、東大出てから言ってみたい」というやつである。
  実に言い得て妙であり、歴代の予備校CMでもトップクラスのインパクトではないかと思う。 少し心配なのは、このような宣伝が、「学歴偏重意識を蔓延させる恐れがあり、けしからん」といった的外れな非難が出てくることである。 そういう意見を言うのは、学歴というものを必要以上に意識している人なのではないかと私は思うのだが。
  誤解のないように言っておけば、私はもちろん東京大学の出身などではないし、それどころか、その他の国公立でもない。 私立文系という最も評価の低い、使えない経歴である。だが、それを恥じたことはもちろんないし、東大や京大出身者をうらやましいと思ったこともない。 自分の歩んできた道は、自分にとってベストであったと思う。
  17、8歳という青春の一時期に、普通の人の何倍も努力して、難関を突破した人たちは、やはりそれだけで評価されてしかるべきだと思う。 普通の人が成し得ないことを成したという点は、純粋にすごいと思う。もし東大卒の人たちを羨ましいと思ったり、妬んだりするのなら、 なぜ高校の時に死に物狂いで勉強しなかったのかとその人に問いたい。自分にはどんなに頑張ったって無理で、所詮アタマの出来が違うのだ、とおっしゃるかもしれないが、 それは言い訳に過ぎない。皆同じ人間なのだ。死ぬ気で頑張れば、どんなことも成し得ると私は思っている。何度失敗しても、成功するまであきらめなければいい。 違いは、それをやろうと思うか、思わないかだけである。
  学歴偏重是正のために、誰でも希望さえすれば東大に入れるようにすればいい、などというバカげた意見もあったが、 それについて、とあるテレビで塾通いの小学生にインタビューしたら、「そんなバカなことはやめて欲しい」と答えていた。 「頑張った人だけに、それに見合う評価が与えられるのが当然であり、だからボクは頑張っている」とも言っていた。非常にまともな意見である。
  学歴差別をなくすために、東大に入りやすくすればいいという発想が出てくるのは、やはり東大を特別視しているからだ。真に学歴偏重をなくすということは、 大学を出ていようがいまいが、就職等に際し、まったく処遇が同じになるということである。しかし、そんな理想論が現実となるのはかなり難しいだろう。 世の中には、東大出身というブランドにすがらなくては生きられない人もいるからだ(東大出身の意欲ある皆さん、ごめんなさい)。
  そもそも良い会社、安定した会社に就職する、あるいは官僚になるということがそんなに幸せなことなのか。そういう形にだけ価値を見出している人は、 自分のやりたいことが見えていない人である。
  私の友人に、定職につかず役者を目指している者、自分の店を持つことを目標としている者、学者を志す者などがいるが、 一様に彼らは輝いており、幸せそうである。そういう人生の輝きの前では、どんな学歴や職歴もかなわないはずだ。 私自身も、そういう人間でありたいと思う。
  学歴社会は、それはそれでOKだと思う。もし、人間性だけで人を評価しましょうなんて世の中になったら、「人間性内申書」が作成され、 あなたは人間的に劣りますからダメですなんてことになってしまう。それに比べれば、たかが卒業した学校の名前くらいで選別されている方が平和であり、 そんなものいつでも、何かに意欲と情熱さえあれば、違った形でくつがえせると思う。社会的立場のようなものをくつがえすことができなかったとしても、 そんなものにしがみついている人よりも、もっと輝いた生き方をすればいいのだ。それは誰にも出来るし、それこそが人生における本当の勝利である。
  あなたは今本当に輝いているだろうか。心がけるべきことは実に単純明快。自分が楽しいと思うことだけを追求すればいい。 世の中はそう簡単にはゆかない、などと言い訳をする暇があったら、その世の中をあなたが変えてゆけばいいのだ。あなたの人生では、いつもあなたが主役である。 文句を言っているほど人生は長くはない。

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