時事ネタコラムのページ [利酒日記別室]

2020年05月



2020年5月3日
 この国の現状


 自粛警察という言葉があるらしい。

 全国への緊急事態宣言の発令に伴い、多くの店舗等へ休業要請がなされたり、 時間短縮営業の要請が行われている。そんな中、「どこそこの店舗が営業していますよ」と役所に電話を入れたり、 ひどいのになると、店のシャッターに「お店を閉めてください」などという貼り紙をしたりする。

 飲食店などは、休業ではなく、時間を区切った営業が要請されており、 それに従って営業を続けている店舗については何の問題もなく、非難される謂われなどまったくないはずである。

 たとえ休業が要請されているパチンコ店のような業態が営業を続けていたとしても、 法的な命令を破ったわけではない。休業要請はあくまでも要請であり、それに直ちに従わなかったからといって、 違法行為ではない。彼らは固定費が莫大であり、融資も受けにくい事情があるという。 中小の場合、営業を止めれば直ちに倒産の危機に瀕し、従業員は路頭に迷うことになる。 十分な営業補償がない中で、店を閉めろというほうも横暴である。 そういう視点も忘れてはならない。

 営業している店も、今、儲けたくてしているのではない。やむを得ず、であろう。 悪いのは、十分な営業補償を約束しないまま無責任に緊急事態宣言を出した国である。 財源がない中、営業自粛要請を出さなくてはならない自治体も苦しいに違いない。 皆が被害者なのである。

 もちろん、多くの人が外出自粛を頑張っている最中に、パチンコ店が開いているからと、 人との接触も厭わず来店し、「別に他人に迷惑をかけているわけではない」などと堂々と言ってのける人には私も共感はできない。 そういう人たちがいるかぎり、感染の終息は遅くなるだろうと危惧する。 子供たちだって我慢を強いられているのに、大人が我慢できなくてどうすると、私も思う。

 しかし、である。そういう行動を見つけるや否や、自分の信じる「正義」に従って、それを糾弾する姿勢はどうだろう。

 本当に恐いのは、人の「悪意」ではなく、「正義」である。 自分は正しいのだと、正義感で行動する人には、「正義」は人の数だけあるという事実が見えていない。 あなたの「正義」が、他者の「正義」と同じとは限らないのだ。もし、自分の「正義」だけを正しいと信じ、 相容れない価値観の人は非難されて然るべきと考えているとしたら、それは非常に未熟で恐ろしい考えである。

 言うまでもないことであるが、人を裁くことが出来るのは、この国においては裁判所だけである。 妙な正義感を振りかざして、人の行動に介入することは、それが行きすぎた場合に、それ自体が犯罪となることだってある。 正当に営業を続けている店に勝手に貼り紙をしたり、しつこく電話をかけて営業を妨害するような行為がそれである。

 非常事態が長期化し、恐れていた事態が進行しているように見える。 この国が、どんどん相互監視社会へと変貌している。

 こんな国で、たとえば憲法に緊急事態条項など設けたらどうなるか。 非常時に国家の強権が発動されると、ルールに背く人間を見つけ出して吊し上げようとする一般人が続出するに違いない。 思想的に対立する人間を憎んで不当な告発をし、微罪で別件逮捕なども横行するかもしれない (例えば小さな交差点で張り込み、信号が変わる直前にちょっと早く渡ろうとしただけで道交法違反で連行、なんてことだってありうる)。 歴史を見れば、この国にはそういう危うさがある。昨今のネット上の書き込みなどを見ても、それは明らかであろう。

 非常事態は個々人の心の裏を顕在化させ、社会の未熟さが露わになる。

 ルールを破った人間は糾弾されてもいいなどという考えは、極めて独善的で未熟で、危険であることを知るべきだ。


2020年5月4日
 よくできました。でももう少しがんばりましょうね。


 予想通り緊急事態宣言の延長が発表された。とりあえず全国一律5月末までだそうである。

 この1か月で皆相当疲弊し、閉店を決める店舗なども続出している。 このまま期間延長するなら、当然それに伴う具体的な補償問題も語られなくてはならない。 さらに、どういう状況になれば解除するのか、具体的数値をもって説明して欲しい。

 しかし、これも予想通り、首相からそれらの説明は、一切なかった。 ただ理念的なものだけを繰り返し、今後のことも「適切に判断する」とだけ。

 これまでの国民の努力が一定の効果を生み、着実に新規感染者数は減少に向かっている。 そのことを讃えながら、もう少しの我慢が必要だという。

 まるで、幼稚園児が、教わったお遊戯がうまくできたから、「よくできました。でももう少しがんばりましょうね」 と先生から言われているみたいだ。

 もうちょっと汚い言い方をすれば、お前らの努力がまだ足りないから、期間延長しなくちゃならないんだ、 と言われているようだ。

 TVで、「大阪府の吉村知事などは、はっきりと数値目標を示して話しているのに、なぜ首相や大臣は明言しないんでしょうか?」 というキャスターの質問に対し、ある解説者は「政治家としての腹のくくり方が違うんでしょうね」と答えていた。 「数値目標を明確に示してしまうと、それが達成できなかったときに責任問題になるから、 それを回避したい政治家は、数字を示さないんです」とも。

 今後10日ほど様子を見た後、専門家会議の意見を聞いて、部分的解除などを検討するという。 あくまでも他人任せである。もちろん専門家の意見を聞くことは大事だが、こういう時に政治判断できない人を、果たして政治家と呼べるのか。

 もう少し我慢しましょうという。我慢の問題ではないのに。 さらなる補償がなければ、命をつなげない人たちがたくさんいるというのに。黙って飢え死にしろとでも言うのだろうか。

 怒りを通り越して、悲しいを通り越して、諦めの気分。 もう、言うことなんか聞く必要ないんじゃないか。そう考える人が続出したら、政治の責任である。


2020年5月17日
 反知性主義の跋扈


 5月14日、全国39県で新型コロナウイルス感染症拡大阻止のための「緊急事態宣言」の解除が発表された。 これにより、経済活動が徐々に再開される運びとなった。

 約1か月という長い間、行動を抑制されたことで大きなストレスを感じた人たちも多いと思われ、 解除による喜びの声、不安の声など、様々に沸き上がっている。

 中には、「そもそも緊急事態宣言など不要だったのでは?」との意見も聞かれる。 補償が不十分な中での自粛要請への怒りが背景にあると思われるが、 その怒りの矛先は、宣言を発した政府のみならず、専門家にも向けられているようだ。

 ことに、厚労省クラスター対策班の「8割おじさん」こと西浦博教授への批判や拒絶反応は相当数あり、 「机上の空論」とか、「8割の根拠を示せ」とか、「そもそも数値が間違っているのではないか」とか、 感情的な意見も散見される。

 それら批判の声のほとんどは、専門家に上から偉そうに命令されたと感じた反発であり、 自由を奪われた怨嗟のようなもので、およそ論理的な意見とは思えない。

 お上から指示されたくない、という意味なら、私もご多分に漏れず、そのように考える人間であるから、 無根拠な強制には決して従いたくはない。提言に合理性がないのであれば、 民主国家の国民の一人として、自分の信念に従って、勝手にさせてもらう。

 だが、専門家の提言が合理的なものであるかどうかの検証なくして、 単に感情的に反発するのは、「反知性主義」の誹りを免れないであろう。

 西浦教授に対する批判の多くは、私が目にした限りにおいて、 ほとんど非科学的、非論理的で、感情的なものである。教授が、 「このまま何も対策をしなければ、最大42万人程度が亡くなる」と発信したことに対し、 「何も対策をしないなんて、ありえないだろう」「ただ恐怖を煽るのはやめて頂きたい」といった反応があったが、 もちろんこのまま放置する策はありえないし、教授の提言は脅すためでもない。 新型コロナウイルスに対して現段階で推定される「基本再生産数」を前提に導かれる数値であり、 それに基づいて効果的な策を打つ必要があるという話である。 逆に言うと、この数値を押さえないと、行動戦略が立てられないというスタートの数値なのである。 批判者のほとんどは、科学に対する無知を露呈しているだけである。

 現象を測定して事実を把握しない限り、それに対する方策は立てられない。 未知の病気であれば、過去にデータがないので、新たにデータ収集して事実を把握し、 また新たな事実が判明したら対応方法をどんどんアップデートしていくほかはない。 門外漢ほど、「専門家なら分かって当然」「専門家が意見を変えるなんてありえない」などと言う。 現実の数値が想定モデルと違ったと言っては、鬼の首を取ったように批判する。 これこそ反知性主義だ。

 中には、ほとんど感情的に 「西浦教授は専門家会議から撤退せよ(篠田英朗)」 などと公言する人もいて、相当にタチが悪いと感じる (この方は大学教授だが、内容から推測して、おそらく数理モデルなど理解せず、 単にイデオロギー的な拒絶反応に過ぎないと思われる)。

 緊急事態宣言は「壮大な空振り」だった(池田信夫) などという言い分に至っては、 現象を都合のいいように解釈してみせる非科学的な暴言である。同主張の中で、感染のピークは緊急事態宣言の前に既に迎えており、 宣言の前後で新規感染者数の減少率は変化していないとの指摘があるが、宣言以前から行動自粛は既に広がっており、 むしろ国による宣言が遅すぎるという声が方々から上がっていたはずだ。

 一方、私が目にした西浦教授批判(批判というか、指摘)の中で、ほとんど唯一、なるほどと思ったのが、 東京大学工学系研究科の大澤幸生教授による意見である。

 やや長いが引用する。

『さて、「8割減らし」は、厚生労働省のクラスター対策班に所属されている北海道大学の西浦博教授らによる感染症の統計数理モデルに根拠があると筆者は理解している。 このモデルでは、1人の感染者が他の何人の感染者を新たに生み出すかを意味する「再生産数」Rに着目する。 一人から他者への比率をrだけ減らすと、再生産率は(1−r)Rに減り、この値を1未満にすると感染者は減ってゆく。Rを2.5と見積もるとr>0.6でぎりぎり条件が満たされるが、 急峻に減らすためにr=0.8を推奨するロジックだというのが私の理解である』
<中略>
『しかし、私は関連する論文も拝読した結果、やはりモデルが単純すぎて混乱してしまった。 感染者Aには隣人Bがいて、隣人Bにはその隣人Cがいて、・・・たくさんの人がその先にいるだろう。 A氏がB氏が接触する確率を2割まで減らすと、B氏が感染するする確率は線形に2割だけ減るのだろうか? ある程度まで接触して閾値が超えると感染するのなら、非線形に伝わり複雑な現象を呈するのではないか。 さらに、もしここが線形に伝わるとしてもC氏の感染率はもとの4%まで減るだろう。 またC氏の隣人には他にD氏もいてA氏がD氏に直接接触しているかもしれないから、A氏からC氏に感染する過程は一層複雑だろう。』 (原文ママ)

「禁三密」「8割減」では動けない 〜社会ネットワークシミュレーションの結果から(大澤幸生)
(医療ガバナンス学会発行メールマガジン)

 大澤教授の言う「モデルが単純すぎて・・」とは、 西浦教授らが採用している最も単純なモデルである「SIRモデル」あるいはそこから拡張した「SEIRモデル」と、 それを前提に算出される当該感染症の「基本再生産数」をベースにした「実効再生産数」の算出方法のことであろうと思われる。

 西浦教授の過去の論文にも記載されているが、SIRモデル(提唱者の名をとってケルマック-マッケンドリック型モデルともいう) とは、S:感受性宿主で感染する可能性のある人口(Susceptible/未感染者)、 I:感染して感染性を有する状態(Infectious/感染者)、 R:感染後に回復して免疫を獲得した状態(Recovered/回復者)の頭文字を取ったもので、 各区画間(S→I→R)の時間当たりの変化は、次のような常微分方程式によって与えられる。

 dS(t)/dt = -βS(t)I(t) ・・・・・@
 dI(t)/dt = βS(t)I(t)-γI(t) ・・・・・A
 dR(t)/dt = γI(t) ・・・・・B

 但し、β:感染率、γ:回復率や隔離率、t:時間 である

 ここから、集団への病気の侵入条件(閾値)としてのR0(基本再生産数:R0 = β/γ)が導かれる(詳細略)。

感染症流行の予測:感染症数理モデルにおける定量的課題(西浦博・稲葉寿)


 例えば上記@式を見ると分かるが、時間当たりの未感染者数の変化(dS(t)/dt)は、 未感染者(S)と、うつす可能性のある感染者(I)との組み合わせ数 S×Iに、 両者が接触した際にうつる率βを掛けたものに依存するということである(右辺にマイナスがついているのは、 Sは時間と共に減っていく(Iに転換する)からである)。

 確かに組み合わせとしてはそうだが、人間は他者と確率的にランダムに出会うわけではない。 特定の人たちは集まるだろうし、何度も繰り返し会うこともある。人間は分子のブラウン運動のように、 不規則にぶつかりあうわけではないのである。感染率βにそのような行動パターンが内在されているならともかく、 濃厚接触者のうちからどれほど感染したのかという現場の数値をそこに代入するだけならば、 人々の行動パターンはそこには反映されていないことになる。 さらに、この前提をもとに外出自粛で他者との接触率を減らしたら、当該接触率減少分だけ線形に再生産率が下がるのか? というのが、大澤教授の抱いた真っ当な疑問だ。

 人間の行動は、社会のネットワーク構造に依存する。だから、その構造を分析して、 シミュレーションを行う必要がある。大澤教授の主張を非常に簡単にまとめると、そういうことである。 同氏が紹介しているが、筑波大学 倉橋節也教授によるシミュレーション( 新型コロナウイルス(COVID-19)における都市封鎖の効果推定(倉橋節也)) などがその例である。

 こういった指摘こそ、求められる有意義なものであり、これこそ知性的な態度と言えるだろう。

 PCR検査のこともわからずただ増やせという意見が多いことを見ても、 特に数学や統計学をまともに勉強していない人が多いことによる現象であろうと思う。 PCR検査を国民全員にせよなどという主張がいかに危険であるかは、また別の機会に書きたい。


2020年5月19日
 PCR検査を全国民に実施すべき?


 新型コロナウイルス感染症に関連し、 日本では諸外国に比べてPCR検査(※注)がなかなか進まないことが批判の的となっている。

※PCR=Polymerase Chain Reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)とは、 ウイルスの持つ特徴的な遺伝子を検出するため、DNAポリメラーゼという酵素の働きで目的の遺伝子を増幅させる技術のこと。 (参考:www.biseibutu.co.jp

 感染が疑われる人が検査を求めて保健所に連絡を取ろうとしたのに電話も繋がらず、 自宅で息絶えてしまったという悲劇も報告されており、大きな問題となっている。

 たくさんの声を受けて、1日2万件実施できるような体制を整えると首相が明言したのにもかかわらず、 現場の人手不足等の理由で、実現には至っていない。 口の悪い人は、検査を進めると実際には感染者が非常に多いことがバレてしまうので、 あえて検査を増やさないのだ、などという陰謀論まで吹聴しているようだが、それは勘ぐり過ぎというものだろう。

 検査数を抑えてきたのは、医療崩壊を防ぐ為だとも言われているが、 必要な人が迅速に受けられるようにすべきことは言うまでもなく、早急に態勢を整えることが求められる。


 このPCR検査に関し、「全国民が検査を受けられるようにすべき」という意見があるようだが、 本当にそれが理想なのだろうか。

 これに関しては、全国民が受けることは、むしろ好ましくない結果を招くというのが、正しい答えである。 以下、理由を説明する。


 どんな検査も100%の正確性を持ったものはなく、外れる確率はゼロではない。 つまり、本当は感染しているのに見逃したり、感染していないのに陽性と判定されたりする問題がある。

 この問題は既に多くの医師などが警鐘を鳴らしているが、簡単な算数の問題なので、ここで分かりやすいように解説してみたい。


 検査で感染している人を正しく陽性と判定する割合を「感度」といい、 感染していない人を正しく陰性と判定する割合を「特異度」という。 両者100%であるのが理想だが、残念ながらそのような検査は存在しない。

 今回の新型コロナウイルスのPCR検査に関し、感度と特異度がどの程度のものであるか、 当初はあまり情報が出回っていなかったが、現在多くの専門家が言っているのを総合すると、 感度は50%から高くてせいぜい70%くらい。一方、特異度は99%以上、高く見積もれば99.9%くらいとも言われている。

 5月18日現在、発表されている全国の感染者数は、16,000人超。これはもちろん検査が進まない中での数値なので、 にわかには信じがたく、実際の人数はこの10倍とも20倍とも言われている。

 20倍なら32万人で、全人口を1億3千万人とすると、感染者の率は約0.25%であるが、もっと多いという指摘もある。

 先日、東京のある病院での検査で約6%が陽性だったとの報告があり、大きな話題となった。 特定のサンプルなので、これを一般化して語ることは決してできないが、 仮に同率で全国に広がっていると仮定するならば、実に780万人もの人が既に感染している計算になる。

 これを前提(感染者がまだ完全回復しておらず、他人に感染させる可能性がある前提)に、検査の感度を70%、特異度を99.9%という、より厳格な数値を採用して、 検査結果がどうなるかを計算すると、次のようになる。

感度=70%, 特異度=99.9%, 感染率=6%を仮定
 真の感染者(6%)真の非感染者(94%)合計精度
検査陽性5,460,000人122,200人5,582,200人陽性判定者に占める真の感染者97.8%
検査陰性2,340,000人122,077,800人124,417,800人陰性判定者に占める真の非感染者98.1%
合計7,800,000人122,200,000人130,000,000人 

 検査感度が70%であることから、実際には感染しているのに「陰性」と判定されてしまう人(偽陰性)が実に234万人(感染者の30%)もいる (赤で塗った部分)。ここが大問題になる。

 PCR検査を全員に!と主張する人は、自分がもし感染しているなら早く知りたい。そうであれば入院するなり、症状がなければ自ら自宅隔離したいという、 純粋な良心のもとにそう考えているに違いない。しかし、検査の結果「陰性」と判定されることが一種の免罪符となり、 文字通り無罪放免、自由に行動するようになるだろう。偽陰性(実際には感染者)の234万人が、一斉に街に繰り出し、 平時と同じ行動をすることを考えると、実に恐ろしいことだ。

 一方、本当は感染していないのに「陽性」と判定されてしまう人(偽陽性/青で塗った部分)は強制的に隔離されるなり、自宅待機を命じられるなど、 行動を抑制されることとなり、これは一種の人権問題となるため、こちらもそれなりに問題である。

 では、どうすればいいか。

 既に発熱などの症状のある人が、速やかに検査を受けられるようにすべきことは、論をまたない。 既に症状のある人は「陽性」である確率は高いが、 仮に一度「陰性」と出てしまっても、再検査を行うか、別の検査を行えばよい。 感度70%の検査を2度続けて行えば、2度とも外れる率は9%(0.3×0.3=0.09)だから、正答率91%(1-0.09=0.91)になる。 そうして、必要な人に必要な医療を、早急に施すべきである。

 一方、症状のない大多数の国民が取るべき行動。それは、自分が既に感染していることを前提に、行動を自粛することである。 検査を受けようが受けまいが、皆が感染している可能性を前提として、生活すべきなのである。 感染拡大防止という観点のみからは、そういう結論になる。だから、密閉・密集・密接の「3密」を避けよと言われているのは、 貴方の身が危険だからなのではなくて、貴方のその行動が犯罪的行為となるからである。 絶対に人にうつさない唯一の方法は、決して人に会わないことである。

 ただ、全国民が一歩も外に出ないで生活は営めない。そこで、医学や疫学の観点からの提言を踏まえつつ、 経済活動との折り合いをつける必要がある。そこにこそ、政治の役割がある。

 経済を破壊させないために、社会生活をどの程度再開すると、どの程度感染が広がるのか。 その場合に、医療現場の受け入れ態勢は大丈夫なのか。必要な薬剤は確保できるのか。 各専門家(社会経済の専門家を含む)の意見を突き合わせて、落としどころを探す必要がある。

 昨今、政府の専門家会議の意見が強権的であるとか、行動抑制を無理強いさせられているとの意見が散見されるが、 人の命を考える専門家の立場では、○○人程度の犠牲が出るのは仕方ないなどと言えるはずがない。 1人の犠牲者も出さないというのが、医療関係者の至上命題である。 責められるべきは、医療や感染症の専門家を矢面に立たせ、自らの判断を放棄している政治家である。 専門家会議が無責任に「8割減」を強制しているといって怒るのは、お門違いというものだ。

 PCR皆検査を行うことが理想ではなく、むしろ危険ですらあるということを、国民に向けてわかりやすく説明すべきである。 検査陰性で「不正確な安心」を与えてしまう弊害をこそ問題にすべきなのである。

 より正確性を求め、全国民に複数回検査を実施するとか、複数種の検査を併用するのが真の理想かもしれないが、 そこまで国費を投入する意味があるのかどうか。

 もしかすると、こういう基本をちゃんとわかっている政治家がいないのかもしれない。 そうだとすると、それこそが悲劇であろう。



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