HOME 珈琲主義メニュー 次へ 2000年7月1日 中学生のころ小遣いを貯めて電動の珈琲メーカーを買ったのを皮切りに、自らの手でレギュラー珈琲を淹れるようになった。最初は粉にしたものを買ってきていたが、
程なく手回しの珈琲ミルを入手することとなる。 高校生のころ日常的に喫茶店に行くようになると、好んでストレート珈琲を注文していた。このころはまだ、
少量ではあるが砂糖を入れて飲んでいた。 珈琲メーカーが不味いと思い始めたころ、見た目の良さからサイフォンを入手することとなる。しかし、これも構造上、どうしても珈琲が水っぽくなってしまうことから、
すぐに限界を感じるようになる。 大学時代ほど、より良い珈琲を求めて行脚した時期はなかった。友人グループ6、7人で喫茶店に行き、全員が違うストレート珈琲を注文し、私がそれを目隠しでテイスティングして、
全部を完璧に言い当てたといったエピソードもある。(今はストレートコーヒーを飲むことが少なくなったので、多分むずかしいだろう) 最も手軽で、それでいて家庭でもクオリティーの高い珈琲の淹れられる道具は、ペーパードリップである。奇をてらわない、かつ、横着しないやり方こそが、
好ましい結果を生むということであろうか。しかし、これには、当然のごとく技術が要る。いきなり大量の熱湯を注いだり、高いところから湯を落としては駄目である。
豆の鮮度、挽き方、湯の温度、落とし方、蒸らし時間、抽出量、抽出時間など、すべての理想的な条件が整ったときだけ、最高の結果が得られる。これはもう立派な科学である。 しかし、この中でも最も重要で、かつ、絶対にクリアしなければならないのは、豆の鮮度である。 良い珈琲を淹れるために必要な条件を、標語的に言えば、「85%の豆の鮮度、5%の技術、そして10%のまごころ」である。珈琲というのは実にデリケートなもので、
淹れる人間の機嫌が悪いと、やはり機嫌の悪い珈琲になるものである。以前入り浸っていた珈琲店で、店主が体調を崩していることを珈琲から察したことがあるくらいである。 現在自宅では、ネルドリップを基本とし、補助的にペーパードリップを併用している。やはり、ネルこそが珈琲を漉す究極の素材ではなかろうか。
挽く道具としては、回転式のグラインダーを使用しているが、文字通り珈琲を「挽く」というプロセスは、熱を発生するので、実は好ましくないのである。
そこで、理想的な道具は、挽くのではなくカットする「珈琲カッター」と呼ばれるものであろう。しかし、家庭用としては少々高価なので、手が出せずにいる。 このようにして、すべてのプロセスに気を配り、心をこめて淹れる珈琲でも、やはり満足できない何かがある。長年珈琲と付き合ってきて、私の得たひとつの結論、 それは、一番美味しい珈琲とは、人に淹れてもらった珈琲であるということ。そこで、今日もまたより良い珈琲、より良い環境を求めて、珈琲店行脚を続けることとなるのである。 2000年7月7日 初めに言っておかなければならない悲しい事実は、およそ世の中の喫茶店と呼ばれる店のほとんどすべてが、基本レベルすらクリアしていないという日本の惨状である。 同様に、世の中で売られている珈琲豆の大多数は、製品としてふさわしいレベルには至っていない。いかに日本の珈琲文化のレベルが低いかということの証左であろう。 珈琲は農作物であり、生鮮食料品である。粉にしたものをパックして売っているということ自体、信じがたいことではあるが、それを招いている張本人は、
実はそのようにクオリティーの低い商品を何の疑いもなく受け入れてしまっている我々消費者なのである。 例えば、このようなことを想像してみてほしい。
朝の食卓にそのまま出せるようにと、卵の殻を割り、丁寧に箸で溶いたものを真空パックにしてスーパーで売っていたら、あなたはそれを買うだろうか。
挽いて真空パックにした珈琲を喜んで買っているのは、それとあまり違わない行為なのだ。我々消費者に、珈琲は生鮮食料品という認識がないから、
平気でそういった物が製品化されているのだ。 欠くべからざる食料品ではなく、たかが嗜好品じゃないかとお思いの向きもあるであろうが、その単なる嗜好品に対して繊細な配慮や、
熱い思い入れを持ち得ないところに、文化程度の低さが露呈しているとは思わないだろうか。 喫茶業界では、本当にクオリティーの高いものを、手間暇かけて提供しようとすると、商売が成り立たないという厳しい現実がある。 その悲惨な窮状を、志と情熱を持って克服したすばらしい珈琲店が、世の中には確かにある。そういう店をより繁栄させるためには、何よりも消費者である我々が、 品質を見抜く目と舌を持つことではないだろうか。 2000年7月22日 珈琲に砂糖やミルクを入れて飲むのは、邪道なんだろうか。 確かに、珈琲本来の風味を楽しむためには、何も入れないのが良いと思う。ブラックだからこそ、自然の甘味というものを実感できると思う。
しかし、こう考えるのは私の嗜好なのであって、砂糖を入れて一番おいしいと感ずる人は入れればいいし、ミルクを入れてこそ初めて生まれる味わいもあると思う。
本当に味に貪欲な人は、人の嗜好を否定しないし、何が本道などという狭量な考え方は取らないものだと思う。
もとより嗜好品なのであるから、各自が最も満足できる方法で味わうのがよいのは言うまでもない。これは、珈琲を淹れるための基本的要領や技術とは独立した次元の話である。 私は、あくまでも素材の本質的な味を探究したいと考えるのだが、これはひとつのアプローチにすぎず、
ワインが、料理とのマリアージュという場面においてその魅力を花開かせるように、珈琲も、例えばお菓子とのコンビネーションによって新たな味を生むということもある。
要は、自分なりの切り口で探求を続けることが、嗜好品を極めるカギではないか。だから、どんな飲み方がツウであるといったスタイル論は、意味がないのである。 ただ、犯してはいけない過ちというものも確かにある。例えば、鮮度の落ちた豆を使うといったことである。
紅茶に珈琲用のクリーミングパウダーや液状フレッシュクリームを入れるとか、温めた牛乳を入れるといったこともこれに属するだろう
(しかし、温めた牛乳の乳臭さと紅茶の香りのハーモニーが好きという人は、それはそれで構わない。ただ、明らかに紅茶の香りの微妙なニュアンスは犠牲になるが)。 そのように、下手な先入観を差し挟まず、ただ好きなものを好きなように追求してゆけば、最後は自ずと味覚が鋭敏になり、 知らず知らずのうちに素材本来の味わいを追い求めるようになっているはずだ。そういう真摯な探究心こそが大切であり、それをツウと呼ぶかどうかは、 外野に任せておけばいいではないか。 2000年8月20日 私が今までの人生で出会った数多くの珈琲店の中で、特に愛しているお店を紹介します。いずれも珈琲のクオリティーは抜群、インテリアも私好みのお店ばかりです。
但し、遠隔地のため、中には数年訪れていないお店もありますので、現在の状況を把握しきれていないところもあります。最近の様子をご存知の方、お教えくださればうれしいです。
なお、ここに挙げた以外でも、私が日頃通っている所など多数ありますが、残念ながらランクインに至るお店はありません。 2000年9月2日 我が家から徒歩10分以内の場所に「スターバックス・コーヒー」があるというのは、実はミーハーな私にとっては少々自慢だったりする。
このサイトにちょっとお馴染みの方は、私がいつも物事の本質を追求する偏執狂、あるいは流行を鼻で笑う頑固親爺のように思っていらっしゃるかもしれない。
しかし、流行りものでも良いものは良いし、それどころか、良くなくてもとりあえず流行だけは押さえておかないと不安になったりする。そういうごく一般的な日本人なのだ。 過去の経験あるいはそこから作られた自分の信念だけに固執して、新しいものを否定し始めると、人は頑固になった、年をとったと言われる。
確固たる信念を持ちつつ、新しいものもすべて受容して常に信念の軌道修正を心がける姿勢こそ、私が理想とするものである。 さて、テーマに戻ろう。スターバックスが日本に上陸し、東京で勢力を伸ばしつつある頃、その評判を耳にするたび、「ふん、所詮一過性の流行りものだろう」
などと思っていた。しかし、実際に行ってみてそのイメージは一変した。確かに「いま流行り的」スタイルをしているし、客層も軽はずみな感じだ。
コーヒーのクオリティも、まあ某有名180円チェーンよりは少しはましかな、という程度(※注)。また値段も、高くはないが、そこそこする。中途半端な感じだ。 ※注:某チェーンの名誉のために言っておくが、私は180円であれだけのことを達成している企業努力はすばらしいと思っているし、ブレンドはともかく、エスプレッソは、 その辺のイタ飯屋で500円とか取られる代物より、はるかに美味い。 それでは、スターバックスの良さとは何か。実は私にもうまく言えないが、店がトータルで醸し出しているアメニティとでも言おうか。 流行りものが、自ら流行りものであることを強く意識したとき、「我々が時代の先導者」的傲慢さ、高圧的雰囲気が自然と醸成されてくる。
それが、鼻につく主原因なのだが、スターバックスにはそれが感じられない。何だか、「皆で力を抜いて楽しんでます」的な空気が流れているのだ。
それでいて、今何が受けるのかをきっちりと押さえているから、「近所の店的安っぽさ」はなく、極めて都会的で、適度にエクスクルーシブで、おしゃれだ。 インテリアに妙に惹かれるものがあると思ったら、それもそのはず。なんと私の好きなSAZABYが経営母体だというではないか。
あの、心地よく体の沈むソファー、我が家にも一つ欲しいなどと思ってしまう。 コーヒーそのもののクオリティだけで言えば、決して足を運ぼうとは思わない。しかし、初めてアイス・スターバックス・ラテを飲んだとき、思わず唸ってしまった。
「コーヒーとミルクのバランスが絶妙ではないか!」これを味わうためだけにここに来るのも悪くない。しかも、「ミルク多めに」なんて注文も聞いてくれるらしい。 夏の暑い日、さすがにランバ・フラペチーノには二の足を踏んでしまうものの、エスプレッソ・フラペチーノは苦味がきいていてとてもよい。最近のお気に入りである。
「かき氷かアイスを食べたいが、余計に喉が乾きそうだ。ファースト・フードのシェイクも甘すぎていけない。」そんな時、このエスプレッソ・フラペチーノが最高だ。
なお、コーヒー・フラペチーノはかなり甘いので、注意が必要である。 また、この店で嬉しいメニューのひとつに、子供用ドリンクなるものがある。特にジュースは、普通のフレッシュジュースが、オレンジなどをスクイーズした、
かなり酸味の強いものであるのに対し、子供用はマイルドである(バヤリースのようだ、という意見もあるが)。我が家のチビは、いつもこれを所望する。180円というのも、親にとって嬉しいではないか。 今、そしてこれからの時代、どんな店、どんな商品、どんなサービスも、最も大切なのは、「バリュー・フォー・マネー」であることだ。高くて質が良いのは当たり前だが、決して安ければよいというものでもない。
バブル崩壊後、価格破壊を歓迎する論調が多いが、私は、価格破壊は、結果的に経済全体を疲弊させるだけだと思っている。もちろん、不必要なコストを削減すべきなのは当然であるが、
価格競争が激化するあまり、モノやサービスの質が犠牲になり、また企業経営が圧迫されるようでは、企業にとっても、我々消費者にとっても不利益である。 安かろう悪かろうではダメだ。払う金に見合うだけのリターンがあれば、喜んでサイフを開く。それが経済の大原則であるし、それを誠実に遂行している企業、店が私は大好きだ。 さあ、暑い日が続いているうちに、フラペチーノに会いに行こう。 2000年10月18日 缶コーヒーのテイスティングをしてみた。いずれも自販機やコンビニで容易に入手できるものである。私の認識では、缶コーヒーは「珈琲」ではなく、「缶コーヒーという独自の飲み物」だが、
最近ではかなり本物志向のものが増えてきて、下手な喫茶店で飲むより余程ましなものも増えた。いずれも冷蔵庫で冷やした状態でテイスティング。 なお、評点は、各項目につき、A:12.5点、B:10点、C:7.5点、D:5点、E:2.5点として合計した。但し、「総合的なコーヒー感」項目のみ倍配点。 また、参考に、原材料名を記載した。コーヒー以外に香料等を添加している製品もあるが、必ずしもコーヒーだけで作っているから良いということではない。
所詮本物の珈琲とは違うのであるから、製品としての完成度が高ければ、香料使用の有無は大した意味を持たないと考える。
1.GEORGIA STATUS BLACK/COCA COLA 2000年10月29日 今回は、ミルク入り缶コーヒーの中でも、比較的すっきりした味わいのものを中心にテイスティングをしてみた。いずれも冷蔵庫で冷やした状態でテイスティング。 なお、評点は、各項目につき、A:12.5点、B:10点、C:7.5点、D:5点、E:2.5点として合計した。但し、「総合的なコーヒー感」項目のみ倍配点。 また、原材料名は、缶に表示されている順番に記載した。周知の通り、原材料は、含有量の多い順に表示することになっているから、例えば、牛乳、コーヒー・・・の順に表示されているものは、
コーヒーよりも牛乳の含有量のほうが多いということである。
1.FIRE 深煎りビター/KIRIN 2000年11月9日 2000年11月12日 2000年11月26日 スターバックスコーヒーの店員さんは、なぜ皆いつもにこにこ楽しそうな笑顔を向けてくれるのだろう。この素朴な疑問が本稿の始まりである。 現在、わが国における外食産業の最大手といえば、言うまでもなく、日本マクドナルドである。ここまで大きくなったのには、当然それなりの理由があろう。
例えば、品質が常に一定しており、店舗や訪れる時間の違いによって味がばらつくということがない。すべての仕事が、完全にマニュアル化され、
製品のレシピや製造方法のみならず、接客態度のひとつひとつまでがいわば規格化されており、省コストが徹底されている結果、低価格が実現されている。
一方、低価格にもかかわらず、その品質は高く、多くの人にその味が評価されている。従って、
いまや全世界に通用するそのブランドネームは、信頼の象徴とすらなっている。このように、理由を数え上げれば、いくつもある。
これらは、私が個人的にマクドナルドを愛している理由でもある。 接客質‐マクドナルドとミスタードーナツ‐ さて、ここで本稿のメインテーマである「接客質」に話を移そう。 いつも変わらぬ応対をしてくれるという点は、確かに安心感はあるのだが、マクドナルドの接客態度に、「心」が感じられないのは、
私だけであろうか。どうも型にはまりすぎて、彼ら彼女らの応対には、ロボットのような冷血なイメージを感じてしまうのだ。
かなり以前からマクドナルドフリークだった私は、しかしこの点だけはずっと引っかかっていた。 すると、ある時、次のようなエピソードを聞き、とても納得したことがある。それは、各企業における接客教育の違いという内容で、
マクドナルドとミスタードーナツを比較した話だった。 ファーストフードチェーンでは、周知のとおりスーパーバイザーが定期的に各店舗を回り、品質や衛生管理、接客態度などをチェックしている。
マクドナルドでは、レジに立つ店員がしっかり笑顔で応対しているかどうかまでチェックし、よい笑顔をしていたアルバイト店員には、
スーパーバイザーがその場でカードを1枚渡す。そして、それが10枚たまると、海外旅行に連れて行ってくれるというのだ
(かなり前に聞いた話なので、現在でもそういうことをやっているのかどうかは定かでない)。
つまり、我々に向けてくれているかに見えるあの笑顔は、実は彼女ら自身のためのものだったというわけである。 一方、とある日のミスタードーナツの、とある店舗では、こんなことがあったそうだ。 1人の女性が、商品を買うためではなく、「両替をしてほしい」とやってきた。それに応対した店員は、非常に丁寧に、
「お客様申し訳ございません。当店では両替は致しかねます。」と言った。彼の態度は、傍から見ていても、礼を尽くした丁重なものだったそうだ。
しかし、その一部始終を見ていたスーパーバイザーは、その店員を呼び寄せ、次のように叱ったらしい。
「あのような時は、ぜひ両替をして差し上げなさい。あの方は、当店ならばきっと対応してもらえるとお考えになって、
来てくださった。だから、今度もしドーナツを食べたいと思うことがあれば、きっと当店を選んでくれるお客様に違いないのだから。」 このエピソードを聞いて、ミスタードーナツの店員の笑顔が、常に我々客に向いていることの理由がわかった気がした。
食べ終わったトレーを片付けようとすると、すかさず店員が駆け寄ってきてトレーを受け取り、「ありがとうございます。次回からトレーはそのままで結構です。」
と笑顔で応対してくれる。ミスタードーナツでこんな経験をされた方も多いだろう。しかもそれは型にはまりきった態度ではなく、極めて臨機応変な対応なのだ。
マクドナルドでも確かにトレーを受け取ってはくれる。しかし、客が片付けようとしたその場に居合わせた時だけだ。
つまり、客の動向にくまなく目を配っているとは言いがたいのである。ミスタードーナツではまた、窓ガラスを実に楽しそうに拭く店員の姿を見ることもできる。
いかにも自分の仕事に誇りを持っているようである。このような態度が徹底されているところに、その接客教育の質の高さが伺われるのである。
多分それは、「お客様に奉仕することが、接客業の基本」というような理念の現れなのであろう。 さて、最近私が最も気に入っているスターバックスコーヒーでも、ミスタードーナツと同じような心地よさを感じることができる。
しかしそれは、ミスタードーナツのように高邁な理念に基づいた仕事というより、むしろクラブ活動のような楽しい雰囲気で、やわらかく接客してくれるのだ。
我々部外者からは、その本当のところをうかがい知ることは出来ないが、おそらく彼らは皆、スターバックスで働いていることを誇りとし、かつ楽しんでいるのだろう。
そのような会社を他業界でも本当に稀に目にすることがあるが、決まって社員を大切に扱っている会社であり、しかも先進的なことをやっているのである。
自分の仕事に、属する組織に、誇りを持って生き生きと働いている人の為す仕事は一流であり、しかも人の温かみが伝わるものである。 力を抜いた人間味のある接客。そして商品の確かなクオリティ。ここまででも素晴らしいのだが、更に特筆すべきは、店が空間として醸し出している何ともいえないアメニティである。
もちろん接客態度といったソフト面から来るものもあるのだが、それ以外の部分、例えば内装のお洒落さ、心地よい音量で流れる音楽、適度な照明、ブランドイメージに則ったグッズ類、
店内全面禁煙の英断など、視覚、聴覚、嗅覚に訴える部分が、極めてソフィスティケートされている。これは、今までのこのようなチェーン店になかったものである。
安ければいい、美味しければいい、といったある種徹底した傲慢さを醸し出す世の多くのチェーン店とは、一線を画している。これこそが、多くの人を惹きつけてやまない
スターバックスの魅力ではないか。 日本マクドナルド社長の藤田田氏は、いわば徹底した商売人である。あそこまで強力にポリシーを貫き通せるのは、やはり一流のビジネスマンなのだと思う。しかし、私は個人的に言うと、
あのようなタイプの人には決して共感を覚えない。冷たく、空しいものばかりを感じてしまうのだ。 本当に良いものを安く提供することに挑戦しているマクドナルドは、いわば結果追求型企業であり、
それに対し、ミスタードーナツは、理念(又は精神)追求型企業だと思う。どちらが素晴らしいということではなく、目指すものが違うのだ。
そして、スターバックスは、その両方を兼ね備える、新しいタイプの巨大企業、いわば「理念・結果融合企業」である。 今までは、「均質化した商品を安く安定的に供給することで信頼を得る大企業」と、「顧客のニーズにきめ細かく対応し、しかも細部にもこだわりを持つ中小企業」の
2パターンが、生き生きと繁栄する会社の象徴であったが、これまで大企業では成し得ないと思われてきた細部のこだわり、本物志向、臨機応変な接客、といったことを、
スターバックスは達成している。これは驚愕に値することだ。それは、おそらくスターバックスという会社の根底に、事業に対する大きな夢とかロマンがあるからに違いない。
しかもそれは、「利益追求」とか「業容拡大」の先にあるものではなく、「美しさ」とか「安らぎ」の土台にある人間的感性に根ざしているのだ。
私は1人の客として、それを日々肌で感じ取っている。 似たような店はこれから増えるだろうが、所詮ものまねであり、スターバックスの優位性は、当分揺らぎそうにない。C.E.O.ハワード・シュルツ氏の書いた次の言葉を読んだとき、
私はこの思いを、いっそう強くした。私の持つ価値観と、非常によくシンクロしたからだ。 『夢想家には、ほかの人たちと違うところが一つある。夢を追う人は単調な日常生活とは全く異なる魅力的な世界を創造しようとする。われわれも同じように夢を追い、
自分たちの店の中にオアシスを創造しようとしているのだ。』 今後スターバックスが凋落してゆくことがあるとすれば、きっかけは次のいずれかであろう。 本当に恐いのは2.の方であり、それゆえ私は、最初はどんなに素晴らしい店であろうとも、普通は多店舗化した段階で「終わった」と感じてしまうのだ。 この危険を回避するための最も有効な方策は、ただ一つ。現在のような無節操とも思える増殖を慎み、出店場所を厳選し、我々客がわざわざ訪れることの喜びを持ち続けられるような店であり続けることである。
お洒落な店、言い換えれば晴れ舞台は、それ相応の街になくてはならない。ブランドショップや美容室などを考えてみればいい。どんなに素晴らしい商品、サービスを提供したとしても、
郊外の庶民的な駅前商店街の中にあっては、価値がないのだ。この点は、我々客の側ではどうしようもないことであるが。 一方、我々客も、いくら近所にできたからといって、例えばスエット姿で、サンダル履きで、コーヒーを飲みにゆくようなことをしてはならない。
お洒落な若者だけの店にせよと言っているのではない。どんな年齢層の客であっても、訪れること自体が既にしてファッションなのだと心得ることである。
店の「敷居の高さ」は、本当は客が作るものであり、それが維持されない店は、
大衆化という名の死へ向かうだけなのだから。 日用品を扱うスーパーならば、それでもいい。しかし、生きるために直接的に必要ではない嗜好品だからこそ、ロマンを色褪せさせてはいけないのだ。 2001年2月5日 以前、当コーナーのPhase5において、スターバックスを評して、次のような表現をした。 確かに「いま流行り的」スタイルをしているし、客層も軽はずみな感じだ。 コーヒーのクオリティも、まあ某有名180円チェーンよりは少しはましかな、という程度。また値段も、高くはないが、そこそこする。中途半端な感じだ。 この時点では、私は正直なところ、まだスタバのコーヒーを味わい尽くしていたとは言えない状況であった。
にもかかわらず、このような表現をした背景には、やはり、流行のチェーン店というものに対する先入観が完全には払拭されてはいなかったからだ。 ここでその非を認め、スタバ関係者と全国のスタバ・ファンにお詫びを申し上げたい。 あれからスタバの色々なメニューを試す中で気づいたことは、バリエーションのベースとなるエスプレッソやドリップコーヒーの質が、実に高いということである。
最近では、COD(本日のコーヒー)が私の大のお気に入りとなった。特に、カフェ・ベロナと、ゴールドコースト・ブレンドが好きだ。 一般的なファースト・フード店やドーナツ・ショップ、ファミレスはおろか、180円コーヒー・ショップでも、コーヒーが煮詰まっていたり、酸化していることが極めて多い。
しかし、スタバでは絶対にそんなことはないし、そもそも豆のクオリティが格段に違う。私は元来、深煎豆のネルドリップが好きなので、
あまりにも手作り、1杯だてということにこだわり過ぎている嫌いがあり、ややもすると機械抽出を蔑視する傾向があった。しかし、出来上がった製品のクオリティを冷静に評価すれば、
スタバのドリップコーヒーは、普通の喫茶店の普通のクオリティのものよりも数段上である。最近はそれを確信している。 普段はCODのほか、エスプレッソ・マキアートを飲むことが多いのだが、たまにカプチーノを飲むと、とても感動する。ぜひ、最初に蓋を取って香りを楽しんでいただきたい。
フォームミルクから立ち昇る、あの、めくるめくようなミルキーで甘い香り。とっても幸せな気分になること請け合いである。 もちろん、Phase9でも書いたとおり、お洒落で、非日常的で、かつ居心地の良い雰囲気も大きな魅力である。 今年の元旦、つまり21世紀の最初の日、近所の神社に初詣に出かけた後、家族でお茶を飲みに行こうということになった。おそらくどこも開いていないだろうと思いながら、 期待せずに駅前の繁華街にくり出してみた。すると、確かに数店舗が営業しているのみであったが、その中の1つがスタバであった。すぐさまスタバに入ったのは言うまでもない。 しかも、3が日とも夜11時まで営業しているというではないか! 正月のように、和風の食事に傾きがちな時こそ、外でコーヒーが飲みたくなるものである。 このようなスタバのカスタマー寄りの姿勢に敬服すると共に、改めて、自宅の近くにスタバがあることの幸福を、最近の私は実感している。 HOME 珈琲主義メニュー 次へ |